ある小説で読んだ一節。
「失礼ですが、ミス・リース、さっきのお話からしますと、あなたは四十歳におなりになりますね?」
カレンは別の茶碗を静かにかきまわし始めた。
「重要な年齢です」
クイーンがつぶやくように言った。
「人生が始まるときだといいますね」
僕もミス・リースと同じく四十歳になる。
クイーンによると、「人生が始まるとき」を迎える。
そうなのか。
今から人生が始まるというのか。
ぴゅう。(´ε` )
朗報である。
まあまあの時間生きてきて、人並みにいろんな経験もした。通過儀礼もあったしイレギュラーなイベントも多少あった。
そろそろクロージングに入ろうか、という気分にもなっていた。
そんなところに、「人生が始まる」とは。
四十歳が、「人生の始まるとき」とは、どういうことだろう。
わからん。
考えてみてもよくわからんし実感としてもよくわからん。
でも、「折り返し地点」とか「人間ドック」とか「介護保険」とか「老後」とか、そういうキーワードを聞かされるより、ずっと心地がいい。
四十歳で人生が始まるならば、39歳までは何だったのだろう。
始まっていなかったのか。
そう、始まっていなかったのかもしれない。
自分の人生を他人の人生として眺める
例えば10歳までのことを考えてみよう。
僕の10歳までの人生。
生まれ、両親と祖父母に可愛がられ、M保育園に入園し、恋をし、卒園し、T小学校に入学し、恋をするなどして、生きてきた。それなりにいろいろあった10年間だったように思う。
でも、振り返ると、このとき私の人生は始まっていなかったのだ。
いま思い返しても、ほとんと覚えていない。上記のようなアウトラインしか思い出せない。
まるで歴史上の人物の年表のようだ。
(坂本龍馬は土佐藩の郷士の二男として生まれ、10歳のときに母を亡くした。気弱な少年で寝小便癖がありいじめを受けていた…)
改めて客観的にみてみると、自分の人生とは思えない。
現在進行系で生きている「今」の時点から、過去の自分の人生を振り返る、ということは、どういうことだろう。
それはもしかしたら、自分の人生を、他人の人生のように、外側から「眺めてみる」ということかもしれない。
そうすると、どういうことが起きるか。
過去の自分の人生は、自分の人生ではなくなる。
すでにもう、別の誰かの人生であり得る。
だから、自分の人生は常に「いま」始まる、と言ってみることができるかもしれない。
今、この時点から人生が始まる、と思うことは、開放感もあるが恐怖もある。
別に思ってもいいし思わなくてもいい。思おうが思わなかろうが、傍から見ればなんの変化もない。
でもまあ、思うことは自由だし人ぞれぞれだ。
裏を返せば、人生はいつ始まったっていいのだ。
スクーターとおばあさんの話
インドのゴアという所にいたとき、スクーターを借りて、日がな集落から集落を移動していた。
ある日、小道の脇におばあさんが立っていた。
おばあさんは手を上げてこっちを見ている。
僕が停まると、おばあさんはスクーターの後ろに乗った。
僕はおばあさんを乗せてそのまま一本道を進んだ。
次の集落に着くと、おばあさんは僕の肩を「ぽんぽん」とたたいた。
スクーターを停めると、おばあさんは、ひょいと降りてそのままどこかに歩いていった。
その次の日もおばあさんは同じところで手を上げて待っていた。
僕は同じようにスクーターにおばあさんを乗せ、次の集落まで連れていった。
同じところでおばあさんは降りた。
その次の日、おばあさんはいなかった。
しばらく待ってみたが来ないので、仕方なく一人で次の集落まで行った。
4日目、おばあさんがいた。1日目、2日目と同じところて手を上げていた。
僕はスクーターの後ろにおばあさんを乗せ、次の集落まで連れて行った。
降りるとき、話しかけてみた。
「昨日はいなかったですね」
おばあさんから返事はなかった。
ただ少しの間こちらをみて立っていたので、写真を撮らせてもらった。
おばあさんは最後少しだけこちらに手を振り、くるりとむこうを向いて、トコトコと歩いて行ってしまった。
なんてことはない、それだけの話である。
10歳までのことは覚えていないのに、こういう細かいことをよく覚えている。
インドのおばあさんを乗せて走ったスクーターの上で、背中に感じた布の感触みたいなのを少しだけ覚えてたりする。
人間はだいたい八十年くらい生きるが、その間にも、人生は、始まったり、終わったりを繰り返しているのかもしれない。
始まりも終わりもその時点では気づかないが、あとになって分かったりすることが、あるのかも。
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