ちょっと前から仏教にハマっているので
仏教のことを書きたいのですが
適当に書くと「解釈が間違ってる」とか言って叱られそうで
やめてました。
でも思い直しました。
仏教は大昔にインドで始まって
いくつかのルートで中国大陸を渡って日本にやってきました。
その間、いろんな変遷があり、いろんな解釈、脚色が加えられて
たくさんの宗派ができて、様々な考え方が出回っています。
そういうわけだからきっと正解は一つじゃありません。
「理解の仕方や捉え方は人ぞれぞれでいいんだ」と
思えるようになりました。
というわけで、書くことができそうです。
![](https://cgsc.info/cgsc2020/wp-content/uploads/2023/10/仏.png)
仏教は、たぶんこういうファジーな考え方を許してくれます。
私は、仏教のそういうところが好きなんです。
「無理に手を加えず、あるがままを受け入れよ」
これが仏教の基本の教えだと思ってます。
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三行目くらいに
「適当に」
って書きましたが、
これはシリアスな場なんかで使うと、怒られちゃう言葉ですよね。
「適当に考えんな!」
とか。
でも、「適当に」という言葉は、
「いい感じに」「いいあんばいに」
というような意味で、
わりとポジティブな捉え方をすることができます。
「あきらめる」の意味
私が仏教を好きになったはじまりは
「あきらめる」
の意味を知ったことでした。
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「あきらめる」という言葉も
「適当」と同じで、ネガティブに解釈されます。
「あきらめたらそこで試合終了ですよ」
と、日本でいちばん有名な高校バスケの監督も言ってましたし。
でも、そうでもないんです。
仏教的に「あきらめる」は
「明らめる」
と書きます。
あきらめる、を
「がんばってたことを断念する」みたいに捉えると
やっぱりネガティブに響いてしまうのですが
実は
「物事の本質を明らかにする」
みたいな意味が、まずあるんですね。
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そもそも、仏教では「がんばる」ということ自体を否定します。
がんばる、というと、
何らかの欲望を満たすために邁進する
という意味が含まれますよね。
「がんばる」教のみなさん、
よーくよーく、
考えてみてください。
がんばる人は、ある意味で、欲望に囚われています。
仏教は、欲望を否定し、その欲を満たすためのがんばりを否定し、
「あるがまま」であることを奨励します。
「明らめる」は、「あるがまま」であるための手段です。
私たちが「明らめる」とき、
何を明らかにしているかと言うと
それは
「欲望の正体」
ではないでしょうか。
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まわりが見えなくなるくらい物事の中にめり込む前に、
ちょっと引いて、俯瞰でみて
「ああ、なんだ。こんな感じだったのか
私はなんであんなに血走ってたんだろう」
と、明らかにする。
なりふり構わず何かを追っかけていた自分を
省みて、客観視して、冷静になる。
何かを追い求める衝動(欲望)を
いったん解体してみる。
まな板の上にあげて、刻んで、中身を見てみる。
そうするとかつて自分が囚われていた
欲望の中身がみえて、自由になれるかもしれない。
これが「あきらめる」なんですっ
たぶんっ
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先の「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」についても
「試合終了して何が悪いのか」
という世界観があってもいいと思います。
「その試合に勝つことと同時に負けることの価値を明らかにして、
さらに試合そのものの意味を明らかにして、
他にあり得る数多の世界線にも、同様に目を向ける」ということ。
これが仏教的なやり方じゃないでしょうか。
一つの世界に価値を見出し、
あきらめず、没入し、「絶対」を信じるのは、
どちらかというとキリスト教的なやり方かもしれません。
(そうじゃないかもしれません)
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というわけで、
(私にとっては)仏教サイコー
仏教の本を読んだりお寺に行くのが楽しい今日このごろです。
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と、ここまで書いて、
これ仕事の場で言うとまずいんじゃないかと思いました。
仏教ファン的には、
「がんばらずに成果を上げる」
ということができればいいなと、
そういうレベルに到達できるように
「適当に」修行を積んでいく必要がありそうです。
(成果をあげないと、仕事場の人に
私の正体が明らかにされてしまいます
資本主義社会!)
ぴゅう。(´ε` )
お釈迦様が生まれたときに言い放った「天上天下唯我独尊」という言葉も、
ヤンキーの「オレはオレだからぁ!」ではなく
「人間として生まれたからには、やることがあんべぇ」くらいの解釈ができるんだそうです。
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