夏が来て、そして過ぎ去ろうとしています。
夏を追いかけたくて、今年も自由研究をしたいと思います。
テーマは「優しさ」について。
「優しさ」とは何でしょうか。
不可解だけどそこにあるもの。みんな知ってるけど実は知らないもの。
そんな「優しさ」について探求してみました。
まず前フリから入ります。優しさについて探求する気になった流れについて語ります。
性悪説
「性善説」と「性悪説」ってありますよね。人間は、本質的には善なるものなのか、悪なるものなのか。
私はだんぜん「性悪説」を支持します。
と言うと、すっと離れていく人が多数かと思いますが、ちょっとだけお待ち下さい。もう少しだけ、話を聞いてください。
善と悪
まず、「善」とか「悪」ってなんでしょうか。
これが「善」でこれが「悪」とかっていうのは、なんとなく人間界に共有されている気がしますが、本当のところは定義されていません。「これは100%善!」と、誰も言えないですよね。つまり、「絶対的な善」とか「絶対的な悪」というのは存在しません。
「善」や「悪」といった概念は、人間が発明したものですよね。人間が勝手に作った。神が創造したわけではない。不完全な生き物が作った不完全な概念です。
自然状態
じゃあ性善説とか性悪説ってことをどう考えればいいかと言うと、人間が自然状態に置かれたらどうなるか、ということを想定するわけです。
善とか悪とかが生まれる前、この世界に人間が産み落とされたとき。いろんな背景や歴史やシチュエーションが削ぎ落とされた「自然状態」で人間は善だったのか悪だったのか。私は「悪」だったとみます。
その理由は、現在「悪」として共有されているものが、自然状態における人間の本能に従った行動に、似ているからです。
「自然状態」は、親しみのある言い方に置き換えると「野蛮」とか「野生」とか「無垢」という言葉に近いです。小賢しい知恵を働かせず、素の状態でいること。猿から進化して、二足歩行したてくらいの状態の人間を想像してみましょう。彼彼女たちは、動物としての本能に従って行動しています。
本能とは
自然状態の動物としての本能って、なんでしょうか。
生き延びること、ですね。これは間違いない。
個体として生き延びるためには、食わなくてはいけない。
種として生き延びるには、繁殖しなくてはいけない。
食うことと、繁殖すること。
これは本能に従った行動と言えます。
そして、本能に従い、食うため、繁殖するために他の種や自分と同じ種を攻撃する、という行為。これは、概ね「悪」に分類されていると思いませんか?(ちなみに、食うことや繁殖することは、攻撃という意味合いを含んでいるように思えませんか?)
そして食うこと、繁殖することには限りがありません。もっと食いたいし、もっと繁殖したい。「生き延びる」という本能に従うのなら当然のことです。ここで、個体差も出てきます。もっと食うために、もっと繁殖するために、他の個体を蹴落としたり、マウントをとったりします。
人間が人間であるための「法」
別の角度からこのことを見てみると、欲望のおもむくままに行動すること = 「悪」というレッテルを、人間はどこかで作り上げたように思えます。
なぜでしょうか。なぜ人間は「生き延びるための行動」=「本能」を「悪」としたのでしょうか。
私の考えでは、人間は自分たちを他の動物と差別化するために「悪」を作りだしました。
人間が、ふつうの動物とは違う一段上の存在であること。「本能」に抗える優秀な種であること。これを示すために、「悪」という概念を作り、「欲望に従うこと」=「本能」=「悪」というルールを作った。
これはある種の「法」のようなものです。
私が性悪説を支持するのは、人間がわざわざ「法」を作って「本能」という「悪」を抑え込む必要があった、と考えるからです。そうしないと、「本能」=「悪」が暴走してしまう。自然状態では人間は「悪」に走ってしまう。
そして「善」が生まれた
人間は、自分たちの生存戦略として、まず「悪」を作った。そして対立概念として「善」が生まれました。
注目すべきなのは、「善」が「悪」よりも後に生まれたことです。「悪」=「本能」に対し、「本能」を抑制するために、「悪」の反対 =「善」が生まれました。
「善」という概念を形成するために、人間は「他者」を見始めます。他人、他種。「他者」を見て、「関係」を学びます。そしてようやく「社会」というものの輪郭が浮かび上がってきます。
「善」は、「他者」を意識しないことには成立しないのではないか、と私は思います。「本能に従うこと」=「悪」は一つの個体で成立するけれど、「本能を抑制すること」=「善」は、他者との関係ありきです。
善とは、「もっと食いたい」という個体や種としての本能を抑制し、他者を尊重する、という行為なのだと思うのです。
優しさのスコープ
長い前フリでした。すいません。ここでようやく本題の「優しさ」が出てきます。
「優しさ」とは、私の考えでは「善」の下に位置づけられるものです。「善」の一つの顕れとして「優しさ」がある。
ここまで見てきたように、「善」と「悪」は絶対的なものではない。人間が便宜的に作り出した幻想のようなものです。「善」の下にある「優しさ」とは何でしょうか。
私は基本的に「優しさ」というものに対して懐疑的です。「あの人って優しいよね」というとき、何をもって優しいとしているのでしょうか。その人の何が、何に対して優しいのでしょうか。
その人の優しさは、Aさんにとっては優しくて、Bさんにとっては優しくない。そういうことは往々にしてあると思います。
「優しさ」について考えるとき、我々は常に優しさのスコープを意識しなくてはならないと思います。
「優しさのスコープ」とは、その優しさの影響範囲です。その優しさ、どこまで優しいですか?誰にまで優しいですか?という問いです。
この問いを持っていると、「優しさって実はそんなに優しくない」ということが分かります。スコープ100%、つまり「世界の全生命にとって優しい」という状況を見たことがないからです。「スコープ50%の優しさ」とか「あの人に対しては優しい」というのなら成立します。が、「絶対的な善」というものが存在しないのと同じように、「絶対的な優しさ」というのも存在しません。
優しさの6要因
というわけで、「優しさ」を疑ってかかります。人間が無条件に肯定している「優しさ」ってなんなのか。
「優しさ」について知るために、優しさの中身を探求することにしました。
そして優しさは6つに分解できるのではないか、という結論にたどり着きました。
人が「優しさ」を発揮するとき、このあと述べる6つのいずれかが要因になっている、という仮説です。
ぴゅう。(´ε` )
後編へ続きます。
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