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くちぶえコラム

自由研究:優しさの6要因(後編)

2021年08月27日(金)

PV 362

夏の終わりに自由研究。「優しさ」を疑ってかかります。

前編では、長い前フリをさせてもらいました。「善」と「悪」について。100%の善なんて存在しないこと。そして善の下にあって無条件に肯定されている「優しさ」ってなんなのか。

優しさの6要因

人が「優しさ」を発揮するとき、以下の6つのいずれかが要因になっている、という仮説を立ててみました。

じゃーん。

この自由研究で私は、無条件に肯定され得る優しさなんてない、という立場に立とうと思います。一見優しく見えても、その優しさが誰かを不幸にしている可能性は常にあります。

優しさを形成するものが何なのか、その要因を解きほぐして考えてみることで、私たちが「優しさ」と呼んでいるものの正体に近づけるんじゃないか。

それで、優しさの6要因を挙げてみました。

ちょっと一つずつ、説明してみます。

外的なものから内なるものへ

血縁→閉鎖空間→欲望→自己承認→無関心→世界への絶望

この順番に説明していきます。

実はこの順番、「外的なものから内的なものへ」という順番になってます。
言い換えると、「環境的なものが原因となって出てくる優しさ」から「自分の中で湧き上がってくるものが原因となって出てくる優しさ」という順番です。

それではいってみましょう。

血縁

血縁です。これはわかりやすい。

血縁由来の優しさは、最もピュアで、無償の愛に似た要素が含まれると思えます。

例えば、母から子に注がれる優しさ。孫から祖母に向けられた優しさ。兄が妹に送る優しさ。

もちろん例外は多々あります。血縁でも優しさが発揮されないケースは多いです。

ですが、優しさの由来(この優しさは何処からくる優しさなのか)を探ったときに、「血がつながっているから」という、身も蓋もない説明しかつかないケースは、ままあります。

血がつながっているゆえの優しさは、「そういうもの」という他ない、他に説明のしようがないものです。

「なんでアタシにそんなに優しくするのよ!」

「俺は君の兄だからだよ」

「・・・!」

みたいな展開はよくありますが、優しさの理由を問われて正面切って答えてもOKで、しかもスッと納得してもらえるケースって、実は稀です。

「血がつながってるから優しい」は、反論の余地なし、人類に共有されている通念です。

(もちろん例外はたくさんありますよ)

そして、簡単には分かってもらいづらい、すれ違いやすい優しさであるとも言えます。

それはこの類の優しさが、最もピュアなものだから、なのかもしれません。

閉鎖空間

さあ、よく分からないものが出てきました。「閉鎖空間」です。

この優しさが何処からくるものなのか?という問いに対し、「閉鎖空間」という解を放り込んでみます。

ここでいう「閉鎖空間」とは、「限定された環境、状況」というような意味合いです。「限定された環境」だからこそ発揮できる「優しさ」というのがあるように思います。というかむしろ、優しさのほとんどの有効範囲は限定的である、と考えています。

例を挙げてみましょう。

【例1】

大学生のA君はデパートで彼女へのプレゼントに30万円の指輪を買ったが、そのお金は振り込め詐欺で手に入れた。

【例2】

社会人2年目のB君は、母親に感じの良いワンピースをプレゼントした。母親は泣いて喜んだ。そのワンピースはお買い得で、あまり給料の高くないB君でも無理なく買えたし、「これくらいで母親が泣いて喜んでくれるのなら安いものだ、毎月買ってあげてもいいかも」とさえ思った。だがそのワンピースはとある発展途上国で生産されており、そこでは非常に安い賃金、厳しい条件で多くの労働者が不当に働かせられている。

【例3】

Cさんは不慮の事故で歩けなくなった。リハビリを頑張ればまた歩けるようになる可能性があるが、リハビリがとてもつらい。リハビリの先生も厳しい。すぐ怒るし。つらすぎて親戚のおじさんに相談したら、「大丈夫、リハビリなんてしなくても、私が開発したこの車椅子を使えば自分の足で歩くよりはるかに楽に生活できるようになるよ」と言ってくれた。Cさんはその車椅子を購入し、つらいリハビリを辞め、車椅子で快適に生活できるようになった。

一方、同じように事故で歩けなくなったDさん。先生は厳しく、リハビリはつらい。でもDさんはどうしても自分の足でもう一度歩きたかった。5年に及ぶ厳しいリハビリに耐え、Dさんはなんとまた歩けるようになった。

あらゆる優しさは限定的であり、一方の側面にスポットを当てて「優しい」と思っていても、他方からみると優しくはないんじゃないか、ということが言いたいんです。

例1の場合、A君に悪意があるかどうか、ということはここでは問題にしません。A君は彼女を喜ばせたいがために高価なプレゼントをしたのであって、その部分だけ切り取れば、何も知らない彼女にとってA君は優しいんです。また、例2のB君におそらく悪意はないし、例3で車椅子をくれた親戚のおじさんにも他意はなく、Cさんを楽にしてあげたかった一心だったのだとします。

前編で言ったように、私たちは常に「優しさのスコープ」を考えなくてはなりません。意識する・しないに関わらず、私たちは閉鎖された空間で生きているのであり、それ故に優しさも(深く考えなければ)簡単に行使できるような仕組みになっています。

あり得ない仮定ですが、おそらく、閉鎖されていない、限定的でない場所では、「優しさ」というものはそう簡単には存在できないでしょう。
考慮することが無限にありすぎて、優しさを発揮したくても、きっと身動きがとれないはずです。

一方で、例3のDさん。一見、ハッピーエンドに見えるかもしれません。厳しいリハビリの先生は、実は優しい人だった、というオチが透けて見えます。ですが、この話も、中身をよくよく検討してみる必要があります。「厳しいリハビリのおかげでDさんが歩けるようになった」という側面だけ見れば先生の厳しさは優しさの裏返しということが言えるかもしれませんが、例えばその先生が仕事熱心なあまりに家庭が崩壊していたり、職場の空気がギクシャクしていたり、その厳しさのおかげでリハビリを断念してしまうCさんのような患者さんが続出していたり、いろんな可能性があります。

物事は一面的ではなく、表があれば必ず裏があります。「あの人にはなにか裏がありそう」という時の「裏」ではありません。「裏」は、どんな物事にも「必ず」あるのです

欲望

実は「閉鎖空間」で言いたいことのほとんどを言ってしまいました。なのでここからはできるだけシンプルに行きたいと思います。

「欲望」です。優しさの要因が「欲望」であること。

モテたいために優しくする。というケースが一番わかりやすそうです。

突きつめると(いや、突きつめるまでもなく)、己の性欲を満たすために他者に優しくする、という事象は、この世界の至るところで、あらゆる瞬間に起こっているはずです。

意識的にそうしている場合はとても多いですが、それに負けないくらい、無意識にそうしているケースも多いように思います。
「欲を満たすための優しさ」が無意識だった場合、その成果、つまり欲が満たされるのには、時間がかかったり、少し回りくどい経路をたどることが多いかもしれません。そのため本人も、「優しくしたから自分の欲が満たされた」という因果関係に気づけない、また、気づく必要がないという事が起こります。

欲望は人間の本能そのものなので、それを満たすための戦略として、無意識に「優しさ」というツールを使うようなメカニズムを、人間は搭載しているのかもしれません。

自己承認

「自己承認」は、「欲望」に似ています。

人間の三大欲は、「食欲」「性欲」「睡眠欲」で、これらは生存に関わる根源的な欲望です。ただ「社会的に抹殺される」という言葉もあるように、生命が存続していても社会的に殺されるという恐怖とも人間は戦っています。社会の中で生きるために、人間には「権力欲」や「財欲」、「名誉欲」なんかもあります。

「自己承認」も、社会的な人間がもつ欲望のひとつです。自分で自分を認めたい。

「自分で自分を認める」だけなら、自分独りで完結するんじゃないか、と思いますが、そううまくはいきません。自分で自分を認めるためには、おそらく他者の目が必要です。認める主体としての自分が社会と断絶し孤立した存在だったら、その認めには価値がないからです。
「孤立した自分による自己承認」それで充分じゃあないか、という人は、そもそも自己承認なんて必要ないでしょう。

「社会とつながり他者の目にさらされながらなんとかやっている自分」が認めている「自分」だからこそ自己承認には価値があるのです。(と、ここではそういうことにさせてください。どうせこの問いに正解なんてないのです)

「自己承認のための優しさ」とは何でしょうか。

端的に言うと「他者に優しくしている自分」を認めてあげたい、という心象の顕れです。

一見、どう見ても「無私の優しさ」に見える優しさがあります。どう見ても自分の利益や見返りとは関係のない優しさ。

これには「自分で自分を認めたい」「他人に優しく出来る人間でありたい」「善い人間でいたい」という願いが込められている場合があります。

これも、欲望の亜種と言っていいかもしれません。

無関心

「距離を置くこと」「行動しないこと」が優しさとして受け取られるケースがあります。

例です。

経理のAさんは、親の借金を抱えて悩み、ある時ついに会社のお金を横領してしまいました。それが露見し、社内で大バッシングに遭いました。7人ほどの小さな会社の中で、4人はAさんを激しく責めました。一番仲の良かったBさんは、その後Aさんを露骨に無視するようになりました。そんな中で、社内であまり会話する機会がなかったCさんだけは、それまでと変わらぬ態度で接してくれました。

Cさんの「変化のなさ」は、Aさんの救いになったことでしょう。「優しい」とさえ感じたかもしれません。ただ、Cさんが変化しなかったのは、「無関心」の為せる技なのです。(絶対にそう、とはもちろん言えませんが)

上の例の後日譚です。

Aさんの横領により、零細企業だったその会社は、リストラを断行せざるを得ませんでした。BさんとDさんがまずクビをきられました。Dさんには幼い子どもが二人いて、これからどうしたらいいのか途方に暮れてしまいました。親戚中に土下座して借金をし、なんとか食いつないでいます。
半年後、会社の資金繰りはますます悪化し、社長は首を吊りました。最後まで残っていた社長の盟友・Eさんは、借金取りに追われて姿を消しました。
Cさんは他の会社に転職し、変わらず働いています。Aさんとは連絡をとっていません。

社長や他のスタッフにとって会社は、非常に大事な生命線だったのです。だから横領に対して本気で怒りました。Cさんが変わらなかったのは、その温度が低かったからのように見えます。

上記は極端な例ですが、「無関心」要因の優しさは、これに似たような構造をしています。

つまり、

  • 周囲との温度差によって表面化する
  • そのため、周りがマジで情熱的であればあるほど際立つ
  • 「距離を置くこと」や「行動しないこと」が優しさの形になる

というようなことです。

他の例でいうと、デモ行進をしてる人たちとそれに加わらない人たちのコントラストも、無関心の優しさに繋がりやすそうです。怒ってる人と、平静でいる人とか。

「何かに対して直線的な感情を向けること」それ自体が優しさと反対側の色をしていて、感情を持たないこと=冷静でいることが、優しさに似てしまうんですよね。

あとは、親の説教をウザがる子どもが、YouTuberの声に耳を傾けるようなケースでしょうか。通りすがりの、遠くから発信されるアドバイスめいたものは、あなたに語りかけているようで実はそうではありません。優しく見えるその笑顔の奥には、(視聴者に対する)圧倒的な無関心があります。(あともちろん本人の欲望とか自己承認とかもあります。)

だってそのYouTuberにとって視聴者は見たこともない知らない人間なので。(親がウザいのは、近くて本気だからです。)(あくまで例です。すべてのYouTuberがこうだとは言いません)

現代の社会は、「他人の個人的なことに立ち入らないこと」が重視され、さらにその「個人的なこと」の領域が拡大しています。

そういう中でこの「無関心」が優しさの形に似てしまう、という傾向は、ますます広がっていくように思います。

冷淡な人、動かない人、てきとうな人が、優しい人に見えるようになっていくでしょう。

世界への絶望

ようやく最後まで来ました。
0.001%くらいの人は読んでくれているでしょうか。

「世界への絶望」これが根っこにあって、他人に優しい、というケース。
「こんなのあるのか?」と思われるかもしれませんが、たまにこんな雰囲気をたたえている人に遭遇する気がするんです。もちろん実際のところはどうか分かりませんが。

どういうことかというと、こういうことです。

世界は基本的にはどうしようもないところ。腐りきってる。悪に覆われていて、真面目に生きてる人が損をし、狡猾なやつが甘い汁をすする。人は人を助けないし、見過ごすし、放っておく。世界はよくならない。

こんなふうに感じて生きてる人が、その絶望の中で、気まぐれにこう思います。

「こんなクソみたいな世界だから、せめて目の前のこの人にだけは優しくしようかな」

「がんばっても世界は変わらないけど、せめて生きてる間は、身近な人に優しくできたらいいな」

こういう感じです。

閉鎖空間のことをちゃんと意識して、この優しさは有限だと思いながら、見えてる範囲で優しさを行使したい、という人。世界はクソだし何も変わらないけど、今だけちょっと優しさ出してもいいんじゃない?という気まぐれ。

こういう人、とかこういう瞬間、出合ったことないですかね。
フィクションの中だけですかね。

ほんとに賢くて優しい人ほど、絶望しやすいのかもしれないですよね。そしてその絶望の中からちょっと手を出してみる、というあり方。

そういえば、絶望からスタートするのって、10代後半から20代にかけて、憧れましたね。そうでもないですかね。

ぴゅう。(´ε` )

本当にすいませんでした。わけのわからないことをほざきまくってごめんなさい。

でもどうですかね、「優しさ」って、だいたいこの6つのどれか、あるいは、何かと何かが組み合わさって発現してくるもののような気がしませんか?そして、そういうふうに出てきた優しさって、そう単純なものでもないような、あんま深く考えたくないような…

ちょっとお断りしておくと、ここで挙げた6つは、ぜんぶ同じ種類の概念ではないです。同じ切り口のものが6つ雁首揃えて並んでるわけではないのです。

5つはまあ、「要因」といって差し支えないと思うんですが、「閉鎖空間」だけは、「優しさの状況説明」のようにも捉えられます。それに、「閉鎖空間」はすべての優しさに通じる事象のような気がします。

そこらへんは、何卒、大目に見てください。夏のせいです。

100%の優しさなんてなくても、それがたとえ近視眼的であっても、それでも小世界でお互いに優しく生きていきましょう。という、メッセージを発信し、自己承認の欲望を満たしたかっただけなのです。

今年の夏ももうすぐ終わります。

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書き手は私

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